開天節は当初、民族宗教である「大ジョン教(テジョンギョ。ジョンはにんべんに宗)」の祝日だった。1909年に大ジョン教を開いた羅喆(ナ・チョル)は、同年陰暦10月3日から毎年開天節の行事を挙行した。この日は紀元前2333年に檀君王倹(タングンワンゴム)が(古)朝鮮を建国した日だ。開天節はその後、臨時政府によって祝日に指定され、独立後は正式に祝日となった。1949年の「祝日に関する法律」により太陽暦10月3日に変更された。

 開天節は3・1節、光復節と並ぶ三大祝日だが、いまでは信徒数が4000人にも満たない大ジョン教の社会的地位は見る影もない。大ジョン教の「ジョン」とは「神人(神である人)」、つまり檀君を意味するということはもちろん、大ジョン教が子どもたちもみな知っている檀君をまつる宗教だということを知っている人も多くはないようだ。大ジョン教の教勢がこのように衰えたのは外部要因が決定的だった。

 大ジョン教と抗日運動は非常に深い関係にある。羅喆自身が大変な抗日志士だった。羅喆は、日本の侵奪が露骨になると、4回も日本に渡って伊藤博文に抗議の手紙を送ったり、宮城の前でハンストを行ったりし、乙巳五敵処断を推進してもいる。また軍官学校を建て、多くの抗日闘士を育てた。

 綺羅星の如き抗日独立運動家の多くは、大ジョン教の教徒だった。3・1独立宣言はもちろん、2・8独立宣言よりも前の戊午独立宣言(1918年陰暦11月)が発表された場所は、満州にあった大ジョン教総本社で、宣言を起草した趙素昂(チョ・ソアン)とそこに名を載せた39人の人士の大半が大ジョン教の教徒だった。1919年の上海臨時政府発足当時、35人の議政院議員のうち28人、鳳梧洞(ポンオドン)と青山里(チョンサンニ)の大勝を導いた人々、ハングル運動を率いた人々の多くも…。星の数ほど多いので、一人ひとり挙げることができない。

 大ジョン教の教徒数は30万人に達した。しかし、羅喆をはじめ10万人あまりが日帝によって殉教した。こうして根が断たれた。解放後は、初代内閣にイ・シヨン副大統領、イ・ボムソク首相ら、大ジョン教の教徒も数人が入閣したものの、親日勢力が再び勢力を伸ばしたことで急速に衰退してしまった。今日、親日勢力に深く根ざした極右勢力は、子どもじみた「ドライブスルー」でついに開天節まで軽蔑しようとしている。

アン・ヨンチュン論説委員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

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